こんにちは 小原由美子です
私のライフストーリーを、お伝えしますね。
よろしければ、お読みください。
高校卒業までの、岡山の小さな城下町での暮らし
岡山県北の山間の町に生まれました。
子供の頃から活発で、「由美ちゃんが、男の子だったら良かったのに〜。」なんて言われながら育ちました。
4月になると、約1000本の桜で彩られ「さくら名所100選」に選定された公園が町のシンボル。
子供の頃は、お城やまでのお花見を、楽しみにしていました。
小学校6年生の頃は、とても辛い時期でした。
1人の男の子から、徹底的にいじめられたのです。
最初は、1人だったのですが、気がつくと、ほぼクラスの全員が、私を無視したり机を倒したりしていました。
親にも先生にも言えず、下校後は、いつもベットと床の隙間にもぐり、泣いていました。
不登校にもならず…。
どういう精神状態だったのか、不思議です。
しかし、このいじめられっ子体験は、とてもよい経験だったと、今では思えます。
弱者、お辛い立場の方々のお気持ちが理解できるのです!
日常生活の中でも、何かでお困りの方をお見かけすると、ついつい声をかけてしまいます。
この12歳の時の体験は、私の人生に、大きな影響を与えていると感じています。
好奇心いっぱいの20代
父の、「東京の大学で学び、視野を広めなさい。」という勧めに従い、19歳にして、東京での一人暮らしが始まりました。
21歳の夏休みだったと記憶しています。
ご縁を頂いて、私は、フィリピン・セブ島で1ヶ月を過ごす機会に恵まれました。
セブ島の人々の暮らしは驚きでした。
郊外に行くと、皆さま、日本でいう”小屋”にお住まだったのです。
日本しか知らなかった21歳の私にとっては、最大のカルチャーショックでした。
日本の生活が、当たり前と思っていた当時の私にとって、セブ島の皆さまの暮らしに衝撃を受けました。
この体験を通して、私は、もっと世界を知りたい!と、思う様になったのです。
世界中の人々と関わりたい!世界中の方々と、コニュニケーションを取りたい!
そこで先ず、英会話の勉強(?)に取り組みました。
また、同時に軍資金を集め始めました。
バイトはもちろんですが、催事の企画運営をしました。
皆さまの善意もあり、軍資金の目処は立ちました。
さぁ、いよいよ海外での生活に”体当たり”です!
冒険だらけの遊学体験
知人の勧めで、私が選んだ滞在地はアメリカ・カリフォルニア・サンタモニカ。
まずは、アメリカ人のお宅にホームステイしながら、語学学校に通学。
次に、シェアハウスに移り住みました。
このシェアハウスで、多くのヨーロッパ出身の方々と知り合いになったのです。
語学学校を卒業してしまった(?!)私は、約3ヶ月間かけて一軒一軒、全部で10軒以上のヨーロッパの友人宅を訪ね歩くことになったのでした。
いく先々で、暖かくお迎えいただきました。
さらに、この”体当たり”体験で、結果的に、様々な国の文化・人々の価値観を肌で感じる事が出来ました。
この頃から、「人は、それぞれ違っていていい!日本の常識は、世界の非常識かもしれない?」と感じるようになったのです。
この思いが、次の人生のステップへとつながるのでした。
一週間の不眠不休も苦にならなかった”夢中になった仕事”
帰国後、私が感じている事を、多くの方々にお伝えしたいという思いが、強くなりました。
紙媒体がいいか?映像媒体がいいか?と、思い悩んだ末、紙媒体に携わることを決意!
向かないと悟った、会社勤め
ところがです。
大手出版社の契約社員になった私でしたが、9時〜17時の勤務体制(仕事内容にもよります)が、苦痛で仕方なかったのです。
通勤電車に乗り、時には、痴漢まがいの行為に怯えながら、会社勤務という形態が、私にとっては耐えがたいものだと気がついたのでした。
契約満期まで勤め上げ、この職場は失礼させて頂きました。
テレビ番組制作という仕事
そして、次にご縁をいただいたお仕事は、テレビ番組の制作!映像媒体のお仕事です。
少々、英語が話せるという事で担当させていただいた番組は、「巨泉の○○○…」。この番組のコンセプトは、まさしく私が伝えたいと感じていたものと同じだったのです。
もちろん最初は、ADの仕事からでした。
しかし、当時、巨泉さんの思いに共感し、やり甲斐があると実感し無我夢中で仕事に専念しました。
制作の過程を覚えた後は、フリーランスの作家として、一つの番組に携わるのではなく、同時に何本もの番組に関わり、テレビ番組制作の仕事に従事したのです。
私のヨーロッパ放浪(?)体験をもとに、企画書を書いた際は、実際に番組化された事もありました。
テレビ番組制作の仕事の流れは、「企画を練る → 素材を集める → 構成を固める → 制作 → 皆さまに見ていただく。」です。
私という人は、「無から何かを生み出す事と、裏方が好きなんだなぁ〜。」と感じながら、ウキウキ!毎日楽しく仕事をさせて頂いていました。
そうなんです!生み育てる事が好きなのです♪
しかし、ある日、友人の一言で、私の”体当たり魂”が、ムクムクと頭をもたげてきました!
アシスタント時代から、仲の良かったプロデューサーの方に、「東洋と西洋が交差するブタペストを舞台にした映画、作りたいんだけど、一緒に企画しない?」と誘われたのです。
しかも制作は、アメリカ人スタッフと共同作業を予定しているとの事。
様々な文化や人に対して好奇心旺盛な私にとって、彼の一言は、とても魅力的でした。
しかし、企画は、ある事情でトンザしてしまいました。
それどころか、この企画にあまりにも熱くなりすぎていた為か、テレビ番組制作の仕事に、虚しささえ感じる様になってしまったのです。
この映画制作の企画は、次なるステップへの扉だったのかもしれません。
結婚・出産、そして子育て
映画のお話がなくなった後、仕事一筋ではなく、家庭を持ち、私自身の核を充実させたいと願う様になりました。そして、トントンと結婚したのです。
父の言葉。「いい子に、育てるんだよ!」
結婚1年後には女の子を出産。
この頃、私の父は、余命宣告された上での闘病中でした。
しかし、孫の顔を見たいあまりか、よく岡山から東京に上京してくれていました。
その時、父から言われた事は、「良い子に、育てるんだよ!」
この言葉は、父の遺言の様に感じられました。
そんなある日のことです。
父からFAXが届きました。それは、経済誌に掲載された「ソニー創業者の井深大さんが、お作りになった幼児教室」に関する記事でした。
その記事に感化され、私は、育児にすっかり夢中になっていったのです。
母と子のサロン
井深さんのご著書「幼稚園からでは遅すぎる」(人生は3歳までにつくられる!)を読み、乳幼児期の接し方の重要性を感じたのでした。
最近は、科学的にも大脳生理学や遺伝子の研究により、「白紙の状態で生まれた赤ん坊の脳は、その脳を稼動させるための脳細胞の配線を3歳ころまでに終える。」ということが明らかになってきています。
しかし、当時の私は、「三つ子の魂百までも」の真の意味もわからず、ただただ精魂込めて娘に接しました。
(後に、私は、”意識”についての学びを深める事になるのですが、その時初めて、このことわざの意味を理解したのです。)
私に、子育ての重要性を伝えてくれた父は、長女が1歳1ヶ月の時、他界しました。
そして、その悲しみを払拭したい思いもあり、私は、あどけない娘を育てる事に没頭していったのです。
娘の笑顔とヤンチャは、私の癒しでした。
また次女も授かり、母親業は”私の天職”になりました。
母親業を満喫
長女が1歳になる以前から、お弁当作りは始まっていましたが、娘の幼稚園入園を機に、お弁当作りは日課になりました。
その後も私のお弁当作りは、20年少々続きました。
私の日常は、娘たちの学校・幼稚園・習い事の送迎等、娘たち中心の分刻みで過ごす毎日!
裏方大好きな私にとって、この生活は、と〜っても楽しかったです。
しかし、「三人の娘達に同じ環境で育って欲しい。それは、母である私の力量次第!」という私の思いが強すぎて、両手の麻痺を経験したり、パニック障害を患った時期もありました。
三女が小学校入学後、私は、私自身が勝手に作り出したプレッシャーから、やっと解放されたです。
だが!!!
肩の荷を下ろしたのは、つかの間。
「自分が蒔いた種は、自分で刈り取らなければならない。」と言われてますが、私には”刈らなければいけないコト”があったのです。
気がつけば…
同じ方向に向い、同じものを見ているはずの夫婦。
しかし、夫と私は、全く、別のものを見ていたのです。
子育てが楽しすぎて、夫のことを見ていなかったのかもしれません(汗)
そんな状況に気がついた時、私の中に、素朴な疑問が沸き起こってきました。
人の心理って、どんな仕組みになっているのだろう?
ユング派心理学 & 自然運命学を学ぶ
体当たり大好きな私です。
くよくよ悩んでいる暇は、ありません。
早速、直感で、この先生だと感じた方の門を叩きました。
顕在意識と潜在意識
人の意識に、思いを馳せた事がなかった私にとって、”顕在意識・潜在意識”という単語は新鮮でした!
意識は、氷山に例えられます。
意識は、海面から見えている部分10%の顕在意識と、海面下の見えない部分90%の潜在意識で構成されています。
また、顕在意識と潜在意識の間には、クリティカルファクターという膜があり、普段、潜在意識は表面には現れません。
しかし、7歳〜9歳位までは、この膜は全開状態です。
つまり、その年齢に達するまでの間に、何を潜在意識にインプットするかで、その人の思考・行動パターン(心のプログラミング)が決まるのです。
このシステムを知った時、ハッ!としました。
井深さんが、「幼稚園では遅すぎる!」とおっしゃった意味が理解できました。
そして、現状を変化させたかったら、潜在意識(心のプログラミング)を書き換えればいいという事も学びました。
しかし、です。
変化を望んでいない人の心を変えることは不可能なのです。
そうなんです。
他人を変えることはできません。
状況を変えようと思うと、自分自身が、変わるしかないので〜す!
幼少期の心のプログラミングにつては、理解できました!
しかし、また疑問が湧いてきたのです。
「私の三人の娘たち。同じ両親から生まれ、ほぼ同じ環境で育っている。
でも、生まれた時から、一人一人性格が違う!」どうしてなんだろう?
”持って生まれたものが違う”としか考えられませんでした。
そこで、私は、自然運命学に興味を持ちました。
宿命と運命
生まれた日と書いて”星”。
人は、それぞれの生年月日によって、その人なりの星のもと、宇宙の気の影響を受けて生まれていると知りました。
宿命は定まっている。
しかし、同じ誕生日の人が、同じ人生を歩むことはない。
つまり、環境によって、運命は変えられるという事も学びました。
私自身、自分の星を出して、妙に納得してしまいました。
簡単にご紹介すると…。
「伝達欲求が強い。また、育てはぐくむ事を得意とする。」あっ!「集団が苦手で、孤独が好き。」という気質もありました。
・”伝えたい”という強い思いで始めたテレビ番組制作の仕事
・無我夢中になってしまった子育て
・会社勤めが苦痛で、フリーランスを選択した私
その人が持つ気質を、活かすと運命は好転できると納得しました。
創造ある人生こそ最高!
超えなければいけない山があったからそ、山登りが苦しくて辛かったからこそ、ユング派心理学や自然運命学を学び、心を整えました。
私に学びの機会を与え、支えてくださった皆さまに感謝です。
放送作家として、番組制作に従事していた頃は、ドキュメンタリー・情報バラエティ番組以外に、”お悩み法律相談のコーナー”を担当させて頂いた事もありました。
また、高齢出産だった事もあり、娘たちのママ友の中で年長者だった私は、子育・夫婦関係・人間関係についてと、多くのママ友からご相談を受けていました。
アラ還の私!
第4の人生を迎えようとしている今、ますますやる気と意欲が湧き上がる日々を過ごしています。
あなたは、あなたの人生の創造主
あなたの意識と行動で、どの様にでも日々の生活を彩ることができますよ!
よろしければ、【100%幸運体質になり!7つの開運レッスン】、ご参考になさってくださいね。